14 5月

「府中文化村」が結成3周年記念パーティー開催

昨日(13日)、府中文化村の結成3周年記念のパーティーが、ホテルコンチネンタルで開催され、100人以上の参加者が集いました。同会はこれまで府中市内で様々な活動をされてきた青年・市民の方々が、自主的に民間の任意団体として会を発足させ、結成以来毎月1回やすむことなく、定例の学習会や研究会などのつどいを開催されてきたそうです。

同会の中心メンバーは30代から50代ぐらいの方々が中心で、杉村康之市議(民進)もメンバーの一員として参加されており、意欲と活力にあふれた雰囲気を感じました。私は今回初めて同会の集まりに参加させていただきましたが、府中市内にある様々な団体があるなか、個人個人が集い、これだけ意欲的な活動をされている民間の任意団体は、ないのではないでしょうか。

私も今後、地域の自治会活動をはじめ、こうした民間団体の方々とも交流を深めていきたいと思っています。

14 2月

府中市の信金職員殺害事件から12年「時間が止まったまま」(毎日新聞多摩版)

今朝(14日)の毎日新聞多摩版には、12年前の2005年2月14日、午後11時50分ごろに発生した、府中市の多摩信用金庫府中支店(宮西町1)で発生した殺人事件(同店営業課長の後藤博樹さん、当時39歳が殺害)の記事が掲載されています。後藤さんの母、リウさん(八王子市)は今も情報提供を求めて、街頭に立つ姿が掲載されています。記事では母、リウさんの亡き息子様とご主人様への思いが伝えられています。「(12年前から)時間は事件当時から止まったまま。息子と、志半ばで死んだ夫の無念を、自分が生きているうちに晴らしたい」とあります。リウさんは「神様はなかなかこっちを向いてくれないが、目をそむけることなく事件に向き合わないといけない。頑張るから、だから力を貸してね」と、亡くなられた博樹さん、そしてご主人に語りかけています。記事では情報提供も求めています(情報は府中署捜査本部まで)。

04 2月

毎日新聞多摩版 府中市の話題「府中1小に海苔900食プレゼント、稀勢の里、大国魂で豆まき、ラグビーの街府中 小冊子

今日の毎日新聞朝刊多摩版では、府中市に関する話題が3本掲載されています。1本目は横綱になったばかりの、稀勢の里が大国魂神社恒例の節分祭に招かれて、福豆をふるまった記事です。稀勢の里はこれまでも、同神社の節分に来所されており、今回横綱に昇進したことで、話題を集めています。また同多摩版では2本目に、「府中第1小学校に佐賀県有明海漁協から、海苔900食プレゼント」の記事も掲載されています。記事によれば、「府中市では毎年2月、伊勢丹府中店で佐賀県の産物を集めたイベント『大九州店 佐賀特集』を開催中」「同店に一番近い第1小に全校生徒分をプレゼントした」ともあります。

3本目の記事は「ラグビーの府中、小冊子に」という囲み記事です。ラグビーを通じて府中の街を紹介する小冊子の内容で、1月から市役所など市内の公共施設で無料配布しています。府中市のラグビーといえば、東芝府中とサントリー府中の2チームが、全国トップクラスのチーム。毎日新聞の記事では「企画に携わった政策課は『冊子を手にした多くの人が、府中の街を散策し、ラグビー人気を盛り上げてもらえれば』」とあります。ぜひみなさん、ご覧ください。

28 11月

府中で採れた農産物を食卓に・・府中特産品直売所

今朝は西武線多磨駅であいさつ、一般質問の準備、赤旗拡大行動など。さて府中には地元で採れた農産物の直売所が市内にあります。なかでも市街地(府中市役所第二庁舎の1階)にある共同直売所「府中特産品直売所」には、いつも多くの市民の方が買いものに訪れています。「黒米」「生椎茸」など、府中特産の農産物があることでも知られています。やはり地元で採れた野菜というのは、なんとも親しみを感じるものです。

実は私自身も最近、毎晩の夕食について、野菜スープ(10種類以上の野菜)をつくって食事をしています。毎晩の夕食を野菜中心の食事にしてからは、体調もすごぶる良く、まず風邪をひかなくなり、野菜スープダイエットと言われるように、確かに痩せて、ウエストもしまってくるのが、わかるようになりました。

府中にはこうした素晴らしい特産の農作物があります。私が買い物に行く近所のスーパーにも、府中産の野菜があります。ぜひ市民のみなさん、府中のお野菜をたくさん、摂取して健康な身体を維持しましょう。%e5%ba%9c%e4%b8%ad%e8%be%b2%e7%94%a3%e7%89%a9%e8%b2%a9%e5%a3%b2

26 11月

府中市美術館で開催中、「藤田嗣治」展を見て

今日(26日)、府中市美術館で開催している、「藤田嗣治」展の観賞に行ってきました。藤田嗣治氏は戦前から戦後にかけての画家、1914年にフランスに渡り、「パリの寵児」とも言われるほどの売れっ子の画家に成長、1933年に日本に帰国後は、従軍画家として活動。陸軍美術協会の幹部として「大日本帝国」政府の戦争遂行に協力。これが後の敗戦により、同氏の人生を大きく変えてしまいます。以下、Wikipediaでは、「戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった」とあります。実際私も観賞して、なかでも「アッツ島玉砕」(作品)は見るものに、戦場の迫力とそこで犠牲になる人間の残酷さを覚えました。

さらにWikipediaでは「(戦後)戦争協力の罪を非難され藤田は、渡仏の許可が得られると『絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい』との言葉を残しパリへ移住、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は『私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ』とよく語った。その後も、『国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか』、と手記の中でも嘆いている」と記述。いわば当時の日本政府の国策に大きく翻弄された藤田嗣治氏の人生。私は決して絵画のことを理解する知識など、まったく持ち合わせていない者ですが、この展覧会を観賞して、国家の政策が与える個人の人生への影響と、深いかかわりを感じずにはいられませんでした。藤田嗣治氏は後の1955年にフランス国籍を取得、1968年に没。%e3%82%a2%e3%83%83%e3%83%84%e5%b3%b6