27 11月

府中市消費生活展・・市民協働を市民が主体的に行う

今日は赤旗拡大行動、また午後には府中市消費生活展(府中グリーンプラザ分館)を見学してきました。今年のテーマは「2016足もとから見つめよう!地球といのち」。さまざまな目的を持つ市民運動団体のみなさんによる、日頃の取り組みの成果を展示する催しものです。「学校給食を考える市民の会」をはじめ、生活クラブ生協、府中かんきょう市民の会をはじめとするエコ関係の市民団体など、様々な目的をもつ運動団体が、府中の街をより良い街にするめに、市民の立場から運動している団体が展示をしています。私は、行政が市民運動団体のみなさんの知恵とエネルギーを引き出すこと、そのための環境づくりを行うことは、市民自ら主体的に市民協働を発展させるためにも、重要だと思います。主催は府中市消費生活展実行委員会。%e6%b6%88%e8%b2%bb%e8%80%85%e5%b1%95

26 11月

府中市美術館で開催中、「藤田嗣治」展を見て

今日(26日)、府中市美術館で開催している、「藤田嗣治」展の観賞に行ってきました。藤田嗣治氏は戦前から戦後にかけての画家、1914年にフランスに渡り、「パリの寵児」とも言われるほどの売れっ子の画家に成長、1933年に日本に帰国後は、従軍画家として活動。陸軍美術協会の幹部として「大日本帝国」政府の戦争遂行に協力。これが後の敗戦により、同氏の人生を大きく変えてしまいます。以下、Wikipediaでは、「戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった」とあります。実際私も観賞して、なかでも「アッツ島玉砕」(作品)は見るものに、戦場の迫力とそこで犠牲になる人間の残酷さを覚えました。

さらにWikipediaでは「(戦後)戦争協力の罪を非難され藤田は、渡仏の許可が得られると『絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい』との言葉を残しパリへ移住、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は『私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ』とよく語った。その後も、『国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか』、と手記の中でも嘆いている」と記述。いわば当時の日本政府の国策に大きく翻弄された藤田嗣治氏の人生。私は決して絵画のことを理解する知識など、まったく持ち合わせていない者ですが、この展覧会を観賞して、国家の政策が与える個人の人生への影響と、深いかかわりを感じずにはいられませんでした。藤田嗣治氏は後の1955年にフランス国籍を取得、1968年に没。%e3%82%a2%e3%83%83%e3%83%84%e5%b3%b6

 

18 11月

府中市の中心市街地活性をどうするか・・富良野市の取り組みから学ぶ

今朝(18日)はJR北府中駅前であいさつ、さて共産党府中市議団では、14~15日にかけて、北海道の旭川市と富良野市を視察しました。今回の視察のテーマは、「中心市街地活性化とまちづくり会社」についてです。府中市では20年をかけ、府中駅前の再開発事業を推進。1996年に伊勢丹とフォーリスを、2005年に「くるる」、さらに来年7月スタート予定の第1地区の完成で終了します。しかしながら現在の状況は、先日、伊勢丹府中店が2年以内に縮小・閉鎖の発表があるなど、再開発事業が成功しているとは言えない状況。そこで府中市は「中心市街地活性化計画」(中活)を策定し、特定目的会社として『まちづくり会社』を設立する計画です。こうしたなか、共産党市議団では、他自治体の市街地活性化の取り組みを学びに行きました。

旭川市の場合は、丸井旭川店が撤退、イオン進出の一方で、西武が撤退とするという複雑な状況で、まだ中活が成功しているという状況には至ってない様子。一方、富良野市は地元の商工会所属の複数の経営者がリーダーシップを握り、民間と市民が主導でまちづくり会社を運営し、イベント型事業としてマルシェ(店頭即売販売)の成功などで、活気を取り戻しています。その証拠に、北海道内で地価をあげている3つの自治体のうちの、富良野市はその1つになっています。成功のカギは、行政が民間と市民の取り組みをバックアップすることに徹していること。街の活性化事業を成功させるカギは、地元の地権者、経営者、市民が主体的に「本気」になって、中活を成功させる気概があることを実感しました。2020年のオリパラにむけ、「府中らしい中心市街地」の賑わいをどう発揮させるのか、私も大いに研究し、議会でも取り上げたいと感じています。

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17 11月

府中市多磨町の歴史・・行政権力に対する反骨の歴史を刻む街

今朝(17日)は朝、西武線多磨駅であいさつ。さて私の活動地域のひとつに、府中市の北東部地域があり、そのなかに多磨町があります。府中市施行以前(S29年)は、多磨村という自治体でした。その中心地としての多磨町は、今も武蔵野の面影を残し、緑と歴史を感じさせてくれる街です。多磨町は三鷹市や調布市、小金井市などに隣接する地域で、代表的な施設として大正12年には多磨墓地が建設され、政財界や文化、スポーツ界などで活躍した著名人が今も眠っている一大墓地。「多磨町の歴史」(H4年、多磨町会発行)を読みましたが、感想を言えば、府中市のイメージ(大国魂神社を中心とする武蔵国府がおかれた歴史)とはまた違う、多磨村独特の奥深い歴史を知ることができます。

この書籍によれば、江戸時代は多摩川の洪水との生死をかけた住民のたたかいに始まり、戦前はこの地に調布飛行場が建設、戦後の一時期、それは米軍基地へと姿を替えました。この多磨町には「おおいやま地区」と言われた地区があり、大変痩せ細った地でありましたが、終戦後の厳しい食料難のために、食料補助の目的で小規模開墾が始められたそうです。さらに昭和30年代に入り、調布(二枚橋)塵芥(じんかい)焼却場建設の反対運動に始まり(S31)、おおい山地区を東京都が武蔵野公園用地として事業決定されたことに対する反対運動(S32)、新人見街道建設の反対運動(S37)など、住民の意向を無視した行政権力に対する、反骨のたたかいの歴史が、この多磨町に刻まれていることも知りました。

私は今後も、多くの住民の方々からお話しをお聞きして、多磨町に住む人々の思いを受けとめ、多磨町をはじめとする、旧多磨村地域の発展のために、一人の議員として貢献する決意を新たにしています。

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09 11月

三越伊勢丹HD、府中店含む地方4店のリストラ「合理化」策を検討・・・朝日新聞デジタルニュースより

今朝は東府中駅であいさつ、さて昨日(8日)付けで朝日新聞デジタルニュースが配信され(19時53分)、三越伊勢丹ホールディング(HD)の大西洋社長が行った、9月期中間決算の記者会見のニュースを伝えています。それによりますと、同社は「地方4ヶ所について18年度までに縮小や閉鎖を検討する」としています。「衣料品などの販売低迷が都心部にも広がっており、収益性の悪い地方店の改革を急がざるえない」と伝えています。

このデジタルニュースによれば、リストラ「合理化」策(縮小・閉鎖)の対象店は伊勢丹松戸店、伊勢丹府中店、広島三越、松山三越をあげています。「いずれも収益見通しが厳しく、売り場面積を現在の1万6千から3万2千平方メートルから、3千から1万平方メートルほどにして、コスト削減できないか検討する」と伝えています。「改善できなければ閉鎖も有り得る」としています。「原因は中間決算の悪さだ。売上高は前年同期比5.2%減の5821億円、営業利益は57.9%減の61億円だった」と発言し、とくに衣料品の減少が痛手であったと伝えています。大西社長は「中間層がファッションで自己表現をしなくなった。通信費や美容、旅行にはお金を使うけれど、洋服にはつかってくれない」と語ったとあります。

これまでも三越伊勢丹HDの動向について、経済専門誌で特集された記事をブログから発信、掲載していましたが、ついに同社の大西社長自ら、府中店についても踏み込んだ見解を記者発表しました。来年7月に府中駅南口再開発ビルのオープンを前にしての今回の同社の動きは重大な事態です。